『中国拘束2279日 スパイにされた親中派日本人の記録』より #1

2016年7月、「スパイ」容疑で北京市国家安全局に拘束された元日中青年交流協会理事長の鈴木英司氏。中国で約6年間、熾烈な居住監視、収監の日々を過ごし、2022年10月11日、刑期を終えて帰国した。30年にわたり日中友好に関わってきた鈴木氏は、なぜ突然収監されたのか。いま中国で何が起きていて、われわれは日中関係をどう考えるべきなのか。
ここでは、習近平政権下で拘束された鈴木氏が収監、出所までの過酷な体験を赤裸々に綴った『中国拘束2279日 スパイにされた親中派日本人の記録』(毎日新聞出版)より一部を抜粋。鈴木氏がスパイ容疑をかけられた理由とは。
スパイ容疑の驚くべき杜撰な根拠
取り調べが進むにつれ、私の「容疑」がおぼろげながら見えてきた。2013年12月4日、日本で付き合いのあった中国政府の外交官、湯本淵(タンベンヤン)さんと北京で会食をした際の会話が問題視されているようだった。湯さんは駐日中国大使館の公使参事官を務めていた。
2013年7月に中国に帰国。中国共産党中央党校に入るというエリートコースを歩んでいた。
老師(取調官のひとり)は、この日の湯さんと私の会話を把握していた。ということは、既に湯さんも拘束され取り調べを受けているのだろうと私は思った。盗聴もされていたと私は疑っているが、今となっては分からない。
中国国営新華社通信が報じていなければ“違法”
老師はある日、「北朝鮮に関する話をしただろう。慎重に扱うべき話題であり違法だ」と突きつけてきた。
当時の会話を思い出そうとした。というのも、ちょうど湯さんと会食をする直前、北朝鮮の故金日成(キムイルソン)主席の娘婿、張成沢(チャンソンテク)氏の側近2人が処刑され、張氏の行方も分からないと韓国政府が韓国の国会議員に伝え、この国会議員がマスコミに発表していたからだ。この報道が日本であったのは2013年12月初めのことだ。会食の際、私は湯さんにこの情報について「どうなんですか」と聞いたな「処刑のニュースは公開情報だった。北京に来る前に日本の新聞社も報道していた。おまけに、湯さんは『知りません』としか言っていない。なぜ違法なのか」
老師に迫ると、
「中国国営新華社通信が報じていなければ違法だ」
と思い出した。だが、湯さんの答えは単に「知りません」というものだった。との答えが返ってきた。
私は耳を疑った。一体、この国の法制度はどうなっているのか。こんな程度の会話で拘束できる法制度、人権感覚に、怒りと呆れが交錯した。しかし、これがスパイ容疑を構成することになるとは、その時は思ってもいなかった。容疑固めをするために何でも聞くのだろう。そんな程度の認識だった。
「お前とは一度、会ったことがある」
ちなみに、北朝鮮の治安機関である国家安全保衛部は2013年12月12日、張氏に対する特別軍事裁判を開き、国家転覆の陰謀行為を働いたとして死刑判決を下し即時執行した。このことも当然ながら全世界で報道された。こんな情報のどこが「違法」なのか。
3人組による取り調べが続く中、ひとりの男が珍しく口を開いた。老師がお茶を入れに廊下に出た時だった。
「お前とは一度、会ったことがある。覚えていないか」
30歳前後で浅黒い肌にオールバックの髪形。ギョロリとした目が印象的だ。どこか見覚えがある。私は思わず「あっ!」と声をあげた。
2010年6月、植林事業のため、遼寧(りょうねい)省錦州(きんしゅう)市を訪ねた時のことだ。私は日中青年交流協会の理事長を務めており、植林事業の際は代表団の団長だった。その時、私の手伝いをしてくれたのがこの男だったのだ。北京からのボランティアという話だった。
中国では1998年の長江(ちょうこう)の大水害を機に、自然災害の防止を目的に各種の植林事業が始まっていた。1999年7月、小渕恵三首相(当時)は訪中の際、植林のために100億円規模の基金を設立すると表明。同年11月には日中両政府で交換公文が取り交わされ、日中民間緑化協力委員会が設立された。
日中青年交流協会はこの植林事業を請け負っていた。日中首脳の肝いりで始まった友好活動の現場にまで、国家安全部の監視の目があったとは。驚きのあまり、私はしばらく言葉が出なかった。太陽の光に涙が止まらず
取り調べはその後も続いた。調べが終わっても、本は読めず、テレビもない。紙やペンの使用も禁止。何もすることがない。話し相手はおらず、食事とシャワーの時間以外は、ただベッドにじっと座っているだけだ。
運動は許されていた。歩けとよく言われたが、小さな部屋の中の往復のみだ。他に許されたのはベッドに手を置いた腕立て伏せと柔軟体操だけだった。鏡もなく、自分の姿さえ見ることができない。食事が入っているジャーのステンレスの皿にぼんやり映る自分の顔を見ていた。
頭がおかしくなりそうだった。拘束された日にうっとうしいくらいだった太陽が、ひたすら恋しい。一度でいいから見たい。拘束からおそらく1カ月ほどたったある日、私はその思いを老師に伝えた。
「太陽を見させてくれませんか」
「協議するから待て」
翌朝、老師が502号室に来て、「15分だけならいい」と許可してくれた。部屋から廊下に出されると、窓から約1メートル離れた場所に、椅子がぽつんと置かれていた。座ると太陽が視界に入った。
「これが太陽かあ」
涙が出てきた。もっと近くで見たい。窓際に近寄ろうとすると、席の後ろにいた男に「ダメだ」と制止された。窓からは建物の周囲が見えるからだろう。すべてが秘密に包まれた場所だった。
「終わり」
15分後、無情な声が廊下に響いた。太陽を拝めたのは、7カ月の居住監視生活でこの1回かぎりだった。
日本政府が中国政府に拘束された報道を認める
私が拘束されたことは、毎日新聞では同年7月28日付朝刊で以下のように報道された。
東京都内の日中交流団体の幹部を務める男性が今月中旬に北京を訪れた後、連絡が取れなくなっていることが分かった。日中関係筋によると、スパイ容疑で中国当局の取り調べを受けている可能性もあるという。
関係者によると、男性は今月10日ごろに北京に向かい、15日には帰国する予定だった。だが、27日になっても勤務先に連絡がない状態という。中国では昨年、浙江(せっこう)省などでスパイ活動をしたとして、日本人の男女計4人が拘束された。
(2016年7月28日付毎日新聞朝刊)
スパイ罪で懲役6年の実刑判決が確定
こうした報道を受け、菅義偉官房長官(当時)は同28日午前の記者会見で、私の拘束を日本政府として正式に認めた。これも毎日新聞を引用する。
菅義偉官房長官は28日午前の記者会見で、東京都内の日中交流団体の幹部を務める男性が今月中旬に北京を訪問後に連絡が取れなくなっていることに関して「7月に北京市内で日本人男性が中国当局に拘束された旨、中国から通報があった」と述べ、拘束の事実を認めた。
拘束時の状況や、男性の職業など具体的な内容については「事柄の性質上、コメントすることは控えたい」と言及を避けた。スパイ行為については「我が国はいかなる国に対しても、そうした活動はしていない」と否定した。男性の健康状態については「特別問題があるという報告は受けていない」としたうえで、「邦人保護の観点から在外公館などを通じて適切に支援を行っている」と強調した。
(2016年7月28日付毎日新聞夕刊)
7カ月の居住監視が終わり、私が正式に逮捕されたのは翌2017年2月のことだった。逮捕後に身柄を北京市国家安全局の拘置所に移され、同年5月に起訴された。2020年11月にスパイ罪で懲役6年の実刑判決が確定し、刑務所に収監された。
帰国は2022年10月11日。6年以上にわたった監禁生活で、私の体重は96キロから68キロにまで減っていた。