

9月5日の午前6時、外国人観光客もよく訪れるソウルの南山タワーに向かう坂道に大きな音が鳴り響いた。狭い道路にパワーショベルが持ち込まれ、トラックが行き交う。日本軍慰安婦追悼公園として知られた「記憶の地」にある造形物の一部を撤去する工事がはじまったのだ。そして同日、ソウル市はそこに設置されていた造形物「大地の目」と「世界のへそ」を撤去した。 【写真】「世界のへそ」も撤去され…無残な跡地の様子 ほか
「記憶の地」は2016年に日本軍慰安婦被害者を追悼する大型公園として、ソウル市と市民団体の主導でつくられた。当時のソウル市長は、左翼傾向の朴元淳(パク・ウォンスン)氏。市民団体は委員会をつくり、毎週水曜日に、在韓日本大使館近くでデモを展開。彼らは「記憶の地」建設を推進したことで知られている。文在寅(ムン・ジェイン)政権時代には、従軍慰安婦被害者の聖地とも呼ばれ、南山を訪れる人びとが寄る名所にもなった。 その後、2020年に朴ソウル市長は女性秘書へのセクハラ疑惑を受けて自ら命を絶ち、21年の補欠選挙で保守性向の呉世勲(オ・セフン)氏が新市長に就任した。呉市長は就任初期から、ソウル市から予算支援を受けながら「記憶の地」運動を推進してきた市民団体を批判した。 さらに「記憶の地」にある「大地の目」と「世界のへそ」という造形物を製作した美術家・林玉相(イム・オクサン)氏に、性犯罪スキャンダルが発覚する。 林氏は、彼のもとで働いていた女性職員を強制的に抱きかかえてキスをするなどのわいせつ行為を行った容疑で、今年6月に起訴され、8月に裁判所から有罪判決を受けた。懲役6か月(執行猶予2年)に加え、40時間の性犯罪の治療プログラムの履修を言い渡されている。 呉市長サイドには、セクハラで有罪判決を受けた人物の作品を従軍慰安婦追悼の聖地に置くことは容認できない……という名分が生まれた。そしてソウル市は林氏の作品撤去を発表したわけだ。
「市民団体は死んだ」
もちろん、「記憶の地」 建設を推進した市民団体は、ソウル市の撤去決定に反対した。特に日本国内でも名が知られた慰安婦団体である正議連(チョンウィヨン)の会員は、造形物の撤去前日に「記憶の地」で記者会見を行い、撤去を阻止すると表明。彼らは「ソウル市が林玉相氏を口実に慰安婦の歴史を消そうとしている」と主張した。 しかし世論はこの主張を擁護しなかった。「性犯罪者の作品を慰安婦被害者を追悼する場に置くことは非常識そのもの」といった論調が溢れる。ソウル市も「慰安婦を記憶する空間に性加害者の作品を置けないので必ず撤去する」「正議連も正当な公務執行を妨害せずに、市民の声を聞くように」と断固とした立場を明らかにした。 もっとも撤去阻止行動へのソウル市の懸念は杞憂に終わった。なんの妨害もなかったのだ。 撤去直後、呉市長は、自身のSNSアカウントに「市民団体は死んだ」「日本軍慰安婦被害者を保護するための団体が、セクハラを認められた作家の作品撤去を阻止しようとすることは、存在理由を自ら否定することにほかならない」と投稿し、正議連などの市民団体を非難した。 現在、「大地の目」と「世界のへそ」があった場所には、草と岩、そして墓のような跡だけが残っている。 その映像を見た会社員のPさん(45)はこういう。 「ソウル市長がまだ朴元淳氏だったら、こうスムーズに撤去は進まなかったと思いますね。慰安婦問題は、政治的な利害関係が優先されてきましたから」
李在明氏の像をめぐる活動
さて、そこで気になるのが、慰安婦問題の象徴ともされる、慰安婦像の現状だ。韓国では「平和の少女像」と呼ばれるこの像は、国内外に100体が設置されているが、近年、非難の声も高まっている。設置を推し進めてきた団体の不正疑惑が発覚したからだ。だがその一部は政治的目的がからんでいるだけに撤去や移転が決して容易でない。 例えば、城南市役所の広場にある慰安婦像はどうか。この設置には、背任や不正送金の疑惑で逮捕状が請求され、現政権に抗議するハンストを行った「共に民主党」の代表であり国会議員でもある李在明(イ・ジェミョン)氏がかかわっている。李氏は城南市長だった2014年に、市民団体と共同で慰安婦像の設置を推進した。 市民に開放された市役所前の空間の真ん中に慰安婦像を置くことに市民の意見は割れたが、李在明氏は聞く耳をもたなかった。 李氏は、2016年、当時の朴槿恵(パク・クネ)大統領が、日本政府との慰安婦関連協議を終えると、「韓日の屈辱的な交渉によって政府が(各地の)平和の少女像を撤去した場合は、その少女像を城南市に送るよう要請する」と発言している。また、シドニーで行われた慰安婦像の除幕式にも出席し、2020年にはベルリン市が慰安婦像を撤去する際、ドイツ側に撤去の撤回を促す書簡を送っている。こうした経緯があるだけに、城南市の像の撤去は容易ではない。
韓国内でもナーバスな慰安婦像
ほかにも、京畿道安山市の地下鉄4号線「サンノクス駅」の入り口に建てられた慰安婦像、京畿道南楊州市の繁華街にある慰安婦像で、設置に当たっては当時の政治状況が後押しした。どちらも長期間に渡り、左翼政党が市長職や地域の国会議員の多数を占めてきたエリアだ。城南市と安山市、南楊州市は昨年、保守与党「国民の力」所属の市長になった。慰安婦像に批判的な市民の声を反映しているのは間違いないが、「記憶の地」の林氏の性犯罪のような大義名分がない限り、その地域性から撤去・移転させる可能性は低いといわれる。 慰安婦像は韓国社会でもナーバスな問題だ。撤去や移転の話になると、左翼野党の「共に民主党」所属の国会議員と左翼寄りの市民団体の激しい反発が予想される。慰安婦の撤去・移転を推進すると、親日派または売国奴という烙印を押され、左翼政党から政治的に利用されてしまう可能性すらある。与党「国民の力」の支持率にも悪影響を及ぼしかねない。慰安婦像は今後、親日派と反日派の争点になるともいわれている。
ノ・ミンハ(現地ジャーナリスト) デイリー新潮編集部